乞食に扮した青年を祀り上げる、「乞食祭り」(桶がわ祭り)という奇祭が岐阜県下麻生川辺町の県神社で毎年開催されている。
過去には本物のホームレスを連れてきて開催していたというのだから驚きだ。
名前からしてもインパクト強めな乞食祭りを、旅レポや考察を含めて紹介します。
ネットが普及した現代でも、マスメディアの影響とは大きいものだ。
差別用語や卑猥とされる言葉の数々は、規制の名の下に地上の電波に乗らなくなれば、一般的な日常会話からも姿を消してしまう。
そんなコンプライアンス重視の著しい現代だが、日本には「乞食祭り」という、弩ストレートな名称の奇祭が存在するそうだ。
そのパンチの効いたネーミングに惹かれ、気付けば開催場所である岐阜県川辺町の県(あがた)神社へと車を走らせていた。
到着するや否や目に入ったのは、一人ブルーシートの上にひかれた茣蓙で胡座をかく乞食さんだった。
▲下にひかれたブルーシートは雨よけのもの
乞食祭りの由来
レポートに入る前に、乞食祭りの説明をしておこう。
祭りの起源はその昔、江戸時代にある。
この地域が大規模な飢饉に見舞われた時に、住み着いていた乞食に食料を恵んだところ、雨が降って豊作となったそうだ。
以後、その乞食は神様の使いだと言い伝えられた事がこの祭りの起源にあたる。
毎年4月1日に行われ、祭りの終わりと同時に稲作の準備が始まるのだそうだ。
つまりは乞食祭りとは、豊作祈願と乞食への感謝のお祭りなのだ。
会場で祭りの運営をされている方から聞いた話だと、過去には本物のホームレスを連れてきて祭りを行なっていた時期もあったそうだが、現在は代役を立てて行われている。
因みにこの祭り、「桶がわ祭り」という名称が正しい様なのだが、参加者は大体「乞食祭り」と呼んでいたので、ここではそれと合わせていきたい。
乞食さんと祭具
到着時間はおよそ12時半。ホームページの情報からだと11時〜開始とのアナウンスだったが、埼玉からその日のうちにやって来たのだから、多少の遅刻はまぁ良しとしたいところだ。
祭りの開始時間からは若干はみ出してしまったのだが、境内では未だに祭事が行われている様子。
既に集まっていた観衆の合間から中を覗いてみると、既に終盤の様子で奉納の儀式が終わろうとしていた。
参列者は全員正装で、厳粛な雰囲気で祭事が行われているのと対照的に、乞食さんはというと、近隣の子供達に囲まれて、やれやれと言った感じで神社の中心に居座っている。
なんでも、今年の乞食さんは子供会の会長なのだそうだ。
周辺を見渡してみると、(良く言えば)綺麗とは言えない傘や灰皿、そして背骨を抜かれた様にグニャリ置かれた人形は案山子だろうか。
こういったアイテムが祭具の一つとして扱われるも面白いところである。
そして、乞食さんの目の前にはボール状の缶。
参加者はこの缶の中に金銭やお菓子、たまにタバコ等をお恵みとして入れるのだ。
▲お恵みをもらい、深々と頭を下げる乞食さん
参加者との交流
子供達と乞食さんの記念撮影が終わると、一気に人が居なくなってしまった。
聞けば次の祭事が行われるのは、約2時間後との事。
地元の人は一旦別の場所で時間を潰してから、此方へ戻ってくるのだろう。
▲トイレから帰ってきた乞食さん
まだまだ時間は掛かるが、折角なので交流の時間を楽しむべく、乞食さんや自分達と同様に待機している参加者の人と暫しの間会話していた。
特に、祭りが好きで、ここら辺の祭りを巡りまくっているというおじさんからは、この後の乞食祭りの流れや、良い撮影ポイント、乞食さんについての豆知識に至るまで様々な情報を伝授して頂いたので感謝が尽きない。
楊枝で刺したシケモクで一服している乞食さんを指差し、「ほらご覧、乞食はああやってシケモクを吸うんだよ!」と教えてくれたおじさんの豆知識は、今でも頭から離れないのだ。
▲シケモクを吸う乞食さん
「どこから来たの?」「どこで知ったの?」と、たわいのない会話で時間を潰している間に、だんだんと人が集まって来た。
ここに来て気付いた事がある。
この奇祭、やたらと取材関係者が少ないのだ。
以前記事にも書いた「ジャラポン祭り」や「ヨッカブイ祭り」(開催日的には以後)と比べると、その差は歴然と言えるぐらいに取材が少ない。
パッと見で分かったのは、地元のテレビ局で使用する為映像素材を撮っている人一名と、某新聞の記者さん一名の計二名。
取材名目とは別で、祭りの魅力に惹かれて写真を撮りに来た人は、やはり結構な人数ではあったと思うが、印象に悪そうな名称というだけで、これ程取材は減るのかと少し思い馳せてしまった。
一方乞食さんは、いつの間にやら登場していた酒入りのヤカンで、来場者に酒を勧めまくっていた。


赤飯の奪い合い"おこわかけ"
いよいよ続いての祭事の時間がやってきたようだ。
メガフォンを持った関係者の人がやってくると、ゾロゾロと乞食さんの目の前に道を作るように、二列で並び始めた参加者方。
自分はというと、既に祭り好きのおじさんから、良いポジションを御教授頂いていたので、難なく列の合間に入り込む事ができた。
さて、これから始まる“おこわかけ”なのだが、名称そのままで、乞食さんにオコワ(赤飯)をかける祭事だ。
奥の方から大きめのタライを担いで出てきた四人組の男性は、「わっしょい!わっしょい!」の掛け声と共に神社内を三週ほど走って周る。(昔はもっと長い距離を周っていたそうだ)
ご年配の四人組は、終盤になるに連れて息切れして掛け声も弱々しくなっていたが(途中入れ替わった気もするけど)、なんとか規定のコースを周回し終えると、乞食さんの前方に立ちはだかるべく、列の最後尾へと辿り着いたようだ。
これより、この四人組は乞食さんに向かってオコワをかけるのだが、周辺が異様に殺気立っているのを感じる。
直前に地元消防団の方が「(激しくて)ひくよ」と言った、“おこわかけ”とは如何なる物なのか。
息を整えた四人組は、乞食さんの前へと再び歩を進める。
ある程度の勢いを付けたところで、乞食さんの手元に向かってドバッ!とオコワを放り込んだ。
間髪入れずに周りの人達は、乞食さんに被さったオコワを我先にと奪い合う。
なんでも、乞食さんにかけられたオコワを口にすると御利益があるのだそうだ。
一瞬、時間制バーゲンセールの様になったブルーシート周辺。
瞬く間にオコワは持ち去られてしまった。
撒き散らされて少しだけ残っていたオコワを子供達が拾い終わると、いよいよ残るは乞食さんの掌に乗ったオコワのみとなってしまった。
おこわかけが終わった事で思うところがあったのだろうか。
左手にこびり付いたオコワを、何故かジッと見つめる乞食さんに哀愁を感じる。
「食べるか?」と聞かれたので、一口もらう事にした。
"おこわかけ"の考察
なかなかパンクな祭事であったが、乞食祭り自体の歴史的な背景は抜きにして簡単に考察してみた。
赤飯(オコワ)は、何かしら良い日に食べる物という事は、自分も流石に知っていたのだが、昔は神様にお供えする食糧としても使用されていたそうだ。
特にその風習は神社に残っているそうなので、県神社に住み着いた 乞食さん=神様の使い に対するお供え物として赤飯を運び、乞食さんに向かって投げ込む(供える)というのが“おこわかけ”なのではないかと考察してみる。
そうだとしたら、なんとも大胆なお供え方法があったものだと、少しニヤリとしてしまう変わった祭事であった。
祭りに締めは餅投げで
先程の“おこわかけ”で乞食祭りの祭事は、全て終了したのだが、最後の最後に餅投げが行われる。
なんでも、岐阜県のお祭りの締めは餅投げが行われる事が多いのだそうだ。
気付けばかなりの量の餅が入ったタライが、四方に設置されている。
乞食祭り中盤とは打って変わって、神社内には人が溢れかえっていた。
餅を入れる用の袋を持っているところを見ると、殆どが地元の人なのだろう。
まだかまだかと、餅投げを待ちわびる参加者達の前に、再び運営サイドの方がメガフォンを持って登場。
大声で叫び挙げたカウントの0と同時に、餅の大盤振舞いが始まった。
老若男女関係なく、一つでも多くの餅をゲットする為に手を伸ばす参加者達は、遠目から見ると大騒ぎである。
最後の一つまで投げ終わったところで、餅投げは終了となった。
たっぷりと餅を袋に詰め込んだ参加者達は、一仕事終えた後の様な、スッキリとした表情で帰路について行く。
乞食祭りは笑顔と共に終わりを告げたのだった。
「乞食祭り」で思った事
奇祭参加者減少問題や、祭事変更問題については、これまでも何度か記事に書いた覚えがあるが、今回レポートにした「乞食祭り」も過去と比べると、やはり参加者の減少は悩みの種の一つなのだそうだ。
だがもう一つ、他の奇祭が持ち合わせない、特異な点がある。
お気付きの通り、それは“名称”と祀る“対象”だ。
ローカルな祭りであればある程に、外界に認知して貰うチャンスは、メディアに取り上げられるかどうかに掛かっていると言っても過言ではない。
伝える側が口を濁してしまえば、誰かがこの祭りを知る機会はかなり減ってしまうのだ。
だからと言って、それで損をしている様には思えないのは何故だろう。
それはきっと、そんな時代でもブレずに乞食祭りを開催する姿勢と、地元の人の愛があるからなのだと思う。
おこわかけの開催を待っている時に、乞食さんとこんな会話をしたのを覚えている。
「なんで来ようと思ったの?」
「ブログみたいなの書いてるんで、それで…」
「ああ、そうなんだ。あいつ馬鹿やってるって書かないでくれよ」
伝統を守ろうという気持ちを、色眼鏡で見ることなんてできないのだ。
★過去の奇祭記事はこちら↓